artdemo.20

フクサワタカユキ

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エコードワークス代表
シュールライフクリエイタ

 「アートが作るニュービジネス」ということでお題を頂いてるんですけど、自分はあまりニュービジネスをやっている自覚というのはなかったんですけど、まぁどうやら、主宰者の岡田智博さんから評価していただいて、なるほどそういうことなんだなとうかいまして、自分なりにニュービジネスという文脈で、自分がやっていることを振り返ってみたことを説明したいと思います。

フカサワさんのプロフィールはこちらを CLICK

 私は、エコードワークスというデザインスタジオというか、私の個人スタジオで立ち上げて、シュール?クリエイターというかたちで、暮らしをユニークに変えていこうという活動をしています。

 言葉だけだとよく伝わらないので、まずは簡単に制作した事例写真を見ていただこうと思います。

 まず、もう特に大きく説明する必要はないと思うんですけど、鼻の形をしたコンセントです。鼻が二つある、気孔が二つある、マッチする、みたいな、鼻型のコンセントプラグというプロダクトをつくりました。

 ほかに、「谷間にダイブ」といって、谷間に飛び込みたいと思っている男性の願望や願いをフィギアに託して、我々人間の願望をネックレスをして作ったり、「スマホをやめて本をよめ」というスマホ依存しているような人たちを嗜めるような書籍を読んでいるように装える書籍風のデザインのスマホカバー、スマホをいじりながら、スマホをやめて本を読め、読書しているように見せかけるというアイディアでつくりました。

 これは「横顔メガネ」という名前をつけているんですけども、見たまま、メガネのフレームの根元の部分、横から見たときの根元の部分だけが空いているようにみえるメガネ。これは何かというと、普段どういうコンテンツに触れているかによって人によって理解というか認知されていますが、これをアニメとか漫画の表現では、「あるある」ですが、メガネキャラが真横を向くと、目元がフレームで隠れてしまうので、こうなんかすごくご都合主義といいますが、ちょうどきれいに目元だけフレームが透過して、表情がよく見えるという表現をアニメや漫画ではよく見られますが、これよくよく考えたらおかしいよなと気づきまして、実際に作ってみた、という感じです。

 これは、漫画のワンシーンを切り取ったようなブランケットなんですけど、これ中にセリフのようなモノが書いてありまして、登場人物がいないということで、お昼寝コミックブランケットと呼んでいます。赤ちゃんがお昼寝させるというのを想定したブランケットなんですね。真ん中に赤ちゃんを寝かせると、赤ちゃんが漫画の登場人物に生まれ変わるというかたちで、赤ちゃんがセリフを喋るように見える、まぁちょっと可愛い、赤ちゃんのベビーフォトに絵に描いたようなそういう背景になります。

 もうちょっとコンセプチュアルなものをつくっています。リフティングトイレット、男性が立って用をたっしたいといった時に、尿はねの問題というのが結構ありまして、この家庭内、夫婦間のやり取りで、座って用をたっしなさいというような、汚したらちゃんと拭きなさいというような、汚れて拭くというのは解決策にはならないよなと、そもそも汚したくないし、というのでじゃあ座ればいいのか、立って汚して掃除するのかというような二元論ではなくて、もう一つ別のアンサーになるんじゃないのかなと思って、要するに股間の高さまで便器が上がってきてくれれば問題ない、解決だろうという、力技で便器を股間の高さまで持ち上げてしまいました。実際には排水機能は付いていないのでコンセプトワークなんですけど、そういったものです。

 これはインスタレーション作品です。エスカレーターミュージアムといいます。六本木アートナイトというイベントで展示する機会を頂きまして、エスカレーターの手すりと手すりの間にはデッドスペースがあるなと思っていまして、この空間を何か生かした作品が作れないかなと思い、このフレーム自体を展示空間、美術館に見立ててそこに作品を置くことで、長いエスカレーターをただ待って乗っている退屈な時間ではなく、少し楽しめる体験をできる時間に変えれるんじゃないかなという発想で制作しました。

 これらは、今まで作ってきたもののごく一部なんですけども、要約すると身の回りに溢れたものごとを私独自の視点から切り取って、皮肉とかユーモラスな表現を交えて、身の回りのちょっと「あれ?」と思うようなものをプロダクトや制作物に変換するということをしています。

 私のこの作家性というか、個性、思想とか思考とか美意識といったものが滲み出た企画を、自分で製品化してユーザーの元に実際に届けていくというのが、私の特徴的なところです。
 結構こう、おもしろアイディア系のクリエイターさんって今、特に沢山いまずが、SNSとか、ニュースメディア、ブログとか、そういったところに作品をアップしてすごくウケている人って沢山いますが、結構コンセプトをそのままかたちにした品とか、工作してみました、作ってみた、みたいなのが多くて、ネタとしては面白いけど、これ実際に量産できないよね、みたいな、製品としてお客さん欲しくても買えないよねみたいなものが多いんですけど、私はこれを自分で製品にするところまでを一貫してやっているというのが特徴的な部分です。
 この利点というのが、私自身の裁量で面白い、閃いて面白いと思ったものを、「よし!じゃあそのまま作ろう!」ということができるので、エッジの効いたアイディアというのを純度100%で製品化できるというのがいいところです。

 面白アイディア系のクリエイターさんで、製品を世の中に出す場合、まぁもちろんあるにはあるんですけど、結構多いケースだと、メーカーさんとコラボしてネットですごくバズった面白いアイディアだから、ちょっとメーカーさん一緒にやりませんかみたいなかたちでコラボして、メーカーさんと一緒に販売するみたいなケースがあるんですけど、どうしてもメーカーさんが入るとちゃんと利益あげなきゃいけないとか、このアイディア面白いけどユーザーさん目線だと、もうちょっとこうなってた方がいいよねとか、どんどんどんどんこう角が取れて、最初の尖った部分が丸くなってしまうというような、そういうことが多々ありますが、私が自分でやると、そういうことが極力防げることができます。
 それが、僕の比較的強みかなと、もちろん製造上の制約みたいなのは多少あったりするんですけども、その結果、結構な頻度で話題になるんです。
 Twitterで反応が伸びたものをピックアップすると、リツイート数とか「いいね」が、ちょっと面白いもの作りましたというような感じで僕のアカウントで発表すると、僕自身やエコードワークスというアカウント自体がそんなにフォロワー数沢山いるわけじゃないんですが、それでも数千数万といった単位で、「こんな面白いもの見つけた!この発想はなかった!面白え!」みたいな広がり方をしていくのをコンスタントに出し続けることができています。たぶん単発だったら結構、経験した方はいると思うんですけど、コンスタントにです。

 なぜこういったインパクトのあるものを次々と生み出し続けられるのかっていうのを、あまり意識していなかったんですけど、今回いただいたテーマらしく振り返ると、私フクサワ、またエコードワークスの法則というのは、アート思考を取り入れることで、新たな領域を開いているから「らしい」のでしょう。で、「らしい」っていったのは、僕自身はアート思考を意識的に、あるいは意図的に取り入れようというような考え方は今までしていなくって、まぁただやっていることを振り返る、あるいは周りの人から、最近アートシンキングということが流行り言葉のようにいわれて、みなさんそれがどういうのかというのを調べた上で、私のやっていることを見るとそういう風に見えるみたいな、あぁなるほどそうなんだというのが、実感としてでてきました。

 じゃあこれなんでかなって自分のバックグラウンドを振り返ってみると、私が学生の頃に、デザインとファインアートを交互に専攻していました。片足ずつ突っ込んでいのです。
 高校生の頃に工業高校でプロダクトとかインダストリアルデザインを専攻して、3年間デザインの勉強をしていて、で、産業デザインって堅苦しいな、もうちょっと自由に制作活動したいなと思って、大学でファインアートを専攻しました。今度はファインアートをやってなんか自由すぎて、なんか自分の性に合わないなと思って、卒業して制作活動はしたと当時は思っていたんですけど、絵を描いて、従来型のアートビジネスというんですかね、絵を描いてギャラリーに絵画作品を展示して、一個数十万数百万という値段がついてコレクターの人に買っていただくというような生き方、創作活動のやり方がなんか自分のイメージにあわなくて、工業デザインの勉強をしていたというのもあって、まあアート的な表現はしたいけど、自分がしたい表現の媒体がかいが、絵画とか彫刻とか陶芸とかそういうのじゃないなって。じゃぁプロダクトという媒体を使ってアート表現のようなものができるんじゃないかなと考えたわけなのです。

 エコードワークスとしての起業は、8年前なんですけど、その当時そんなことを思っていたのです。作っているもの自体は一貫してプロダクト、アート作品もたまに作るというかたち。根っこの部分としては、カタチとしてはプロダクトの体裁をとっているいますが、自分としては自己表現をするためのツールみたいな捉え方をしていて、それが結果的にモノづくりのプロセスの中にアート思考が入り込んでくるというのが見え方をしています。

 まぁそんなことなんですけど、アートシンキングがモノづくりにどうインパクトを与えたかということとなると、僕の作品の事例をもう少し詳しく紹介していきたいなと思うんですが、僕はそのモノづくり、製品を作る過程のなかでアートシンキングを取り込めるようなフェーズって2つあるかなと思っています。

 ひとつは、着想の段階。発想の種になるところ。これ僕個人的にはなんですが、ありふれたこと、身の回りにあることの中からモヤッとした体験やこれなんかちょっと引っかかるなみたいなところを発想の種にしていて、その中から気になったものを汲み取っています。

 ふたつめに、飛躍の段階です。結構アートシンキングを丁寧に読み解いていくと、ただのひらめきとか右脳的な発想だけじゃないよみたいなことが書いてあるのですが、やっぱりそのいろいろ要素分解したり、仮説を立てたり、再定義したりしながら、これだとちょっと直接的すぎるなとか、もうちょっとひねりのあるアイディアはないかなとかいうことをコネコネしながら、他の人がやっていないような、差別化できるような、今まで気づかなかったけど「言われてみればそうだよね!」みたいな落とし所を探していくみたいなコンテンツ、そこにアートシンキングが入り込む余地があるんじゃないかなと思っています。

 では、これ作った時どうだったのって話なんですけど、「スマホをやめて本を読め」というスマホケースを作った時は、そのタネになったのが、世の中のスマホ依存みたいな現象、みんなスマホ見てるみたいなのがすごくモヤッとしていて、そのローカルニュースとかネット、ウェブニュースもそうなんですけど、画像とか見ていて、人が集まっている人混みで、みんながこう下を俯きながら、それこそ交差点の人混みとか満員電車とかそういうところの様子が映ってみんなスマホを見ている、すごく気持ち悪い光景だなと思っていても、それを見ている自分はスマホを見ているんですよ。
 それでなんかその状況というのがすごくモヤッとしたんですけど、それをなんかこう面白いコンテンツに置き換えられないかなと思って、ストレートに「スマホを見るのをやめましょう」とか、スマホを見過ぎちゃうからアプリを作って、一つのアプリを使う時間を制限するとか、スクリーンタイムで管理するとか、自分の生活リズムの中で、この時間はスマホをいじらない時間にしようみたいな直接的な手立てっていくらでもあるんですけど、なんかそれストレートで面白くなさすぎるなと思って。そもそもみんなスマホ見ていることが気持ち悪いなと思ったけど、じゃぁ自分がスマホいじるのやめたいのかなと思った時に、別に自分もそうじゃないなと。
 では、スマホって害なのかなって。ずっといじっていたら目が痛くなるとかはあると思うけど、スマホをいじりすぎたら馬鹿になるかといわれると、別にスマホで本読めるしな、電子書籍みたいに、とか思ったりして、別にスマホやめたいわけじゃないんだなというように着想がどんどん展開していって、そうか、この現象はなんか気持ち悪いけれど、それはもうそういう世の中であることを肯定的に受け止めて、理解はしているけどやめられないよねみたいなそっちの方向に持っていって、今の状況を俯瞰してみれた方が面白いかなと思って。これは形容矛盾の権化だみたいにいわれたんですけども、「スマホをやめて本を読め」という本を読みながらスマホを見るという、そういう製品に発展していったという、そういう思考プロセスを辿ってできた製品です。

 お昼寝コミックブランケットを作った時は、SNSっていうのが全盛の時代にあって、なんていうんですか、リア充アピールとか幸せアピールが過ぎるとちょっとなんか鬱陶しいというかもっとするよねみたいな、リア充なんとかとか、幸せアピールとか検索するとすごいディスったようなことが引っかかって、なんかみんなモヤモヤしてるんだなって。で、自分の赤ちゃんの写真とか子育てしてるときの写真をSNSに載せてるっていうのは、もう一段階まぁ突っ込んで、何かもやっとするなというか。自分のハッピーアピールは露骨だからしたくない、なるべく控えようと思っている人も、なんか間接的に自分じゃなくて自分の子供かわいいでしょみたいなのが見せられちゃうみたいな心理がある。
 結構それで子育てを始めた同世代なんかが急にFacebookとかに子育て写真を、今まで投稿しなかったのに、子育て写真とか「うちの子かわいい、親ばかだけどごめんねみたい」な写真をどんどんあげてくるのが、モヤッとするけどなんかそれは決してダメなことじゃないし、自分に子供がいてもそうなるかもとか、なんかいろいろ考えたときに、もう親バカっていうのはわかってるけど、それを微笑ましく見れるようなそういう何かワンクッションがあればいいのかなっていう風に発展していってですね。まぁ漫画を背景にして赤ちゃんが1コマになるみたいな、赤ちゃんが自分の親をちょっとディスっているような、「まったく相変わらず親ばかだなぁ」みたいな、そういう「セリフの吹き出し」の部分に皮肉を込めて、写真を撮ってそれをSNSにあげるお母さんお父さんも、自分親バカだって自認してるけどごめんねみたいな、ちょっとそういう自虐を最初から込められる、ネタの中に仕込まれたみたいなそういう表現の仕方だったら、微笑ましく見れるかなと思って作ったみました。

 リフティングトイレット、これも見たままですが、座る便座であっても立って用を足すことが、男性の方からすると動作が少なくて楽だったりする。でも尿はねが起こるんですよ。
 その実験をしたんですけど、小便小僧から水が出るディスペンサー買ってきて、中に蛍光塗料入れて、30cm高い所から、便器に水を放り込んでみたらですね、ブラックライトでみると、めっちゃ飛び跳ねているのです。これ見て、「うわ、自分もなるべくトイレ座ろう」と思ったんですけど、まぁそれはそれとして、なんかその汚れるから座るというのは、まぁそれはそうなんですけど、立った方が楽なのに、なんでわざわざ座らなきゃいけないかっていうと、便器の形が1個しかないからなんですよね。立ったままの方が楽だけど、立ったら汚れるし、じゃあ座ったら座ったで面倒だし、なんで?って思って。
 この21世紀の世の中に二者択一の、汚れてもたった方が楽だから立つ、汚したくないから面倒だけど座る、みたいなのじゃなくて、何かプロダクトの力で解決できないかなと思ったのです。
 問題はたった時と座った時股間の高さに30cmのギャップがある、そのギャップ自体の便器が埋めればいいんだ、みたいな。で、この便器が30cm上にあがる構造を試しに作ってみた、という発想の飛躍があったのです。

 マンション販売の広告で電車の広告とか中吊りに広告が入ってたりすると思うんですけど、「きらめきの港に臨む指定席」とかあて字を使ったりしながら「指定席」とかよく使われているワードをかけたりしながら、「港に澄まう」「水辺に澄まう」とか「住まう」という字を「澄んでいる」という事を使ってみたいな「マンション広告あるある」な、すごくポエミーな文章~中身はよく伝わらないけどなんかちょっと情緒的みたいな~そういうやつをですね、これなんでかなって、全然、意味ある説明の言葉を使ってなくて、皆、同じようなことが書いてある。
 ここで見せているコピーらしきものは、僕が作ったダミーなんで、なんかそれっぽい感じになってるんですけど、なんかすごくそれっぽいの、なんでこうなっちゃうのっていったら、広告を作るときに使っていい文言、使っちゃいけない文言みたいなのがいろいろあって、結果的に表現できる文章に限りが出ちゃうみたいなので、みんな似通ってるんだけどなんだかすごくラグジュアリーっぽさを煽るようなポエミーなキャッチコピーが出来上がるっていうのが「マンション広告あるある」なのですが、それを見ていてなんかすごくモヤモヤしててこれネタとしては面白いから何かできないかなって、つくってみたわけです。
 「ザ・ポエティックマンションでカードゲーム」なんですけど、カード3枚組み合わせるとなんかすごくそれっぽいキャッチコピーができる。「吹き抜けるそよ風」「きらめきの中で始まる」「至福がここにある」とか全然意味わからないんですけど、なんかこれがカードを入れ替わると「洗練の高台、まるでリゾートのような、語りたくなる住まい」とか何か書いてありそうなんですね、マンション広告に。
 マンション広告に実際に書いてあったコピーの文言を少し引っ張ってきながら組み合わせを変えたりしているだけなので。何かそのあるあるを組み変えて無限にキャッチコピーが生成できるみたいなのが面白いかなと思って作ってみました。

 エスカレーターミュージアムですが、「片側歩行禁止!」、「エスカレーター立ち止まって使いましょう」みたいな、鉄道の事業者さんのキャンペーンが起こっている状況に、もやっとしたものを感じたのです。左側に立って右側は急いでる人に開けるみたいな文化がありつつ、それで結構事故等が起こったりして危ないみたいんじゃないか、みたいな、そういう話がある。そこで、今国際的に両方立ち止まるみたいな文化が根付いてきているから、オリンピックを機にとか、あるいは障害者で半身不随の人が立っているときに歩いている人がいると危ないとか、左半身がちょっと不自由で右側でしか手すりにつかまれないのに、右側を開けなきゃいけない手すりに掴まれないとか、いろんな問題があるらしくって、両側立ちにしようとかそういうキャンペーンを何年か前からやってるんですけど、全然根付かないのです。そもそも、なんかすごく皮肉で片側あけましょうって言い出したのも、エスカレーターを導入しましょうって言い出したのも鉄道事業者とかだったりするらしいのですが。なんかエスカレーターという文化がなかった時に、日本にエスカレーターが入ってきて、「え?こんなのどうやって使うの?」って思った時に、「エスカレーターはこうやって使ってください。でも急いでる人のために片側開けるといいですよね」みたいなことを最初に布教したのが事業者の人たちで、半世紀経って、「危ないからやっぱりやめてください」って急に言い出したんですけど、なかなかもう根づいちゃった文化ですから、「いやいやとはいえ急いでるし」みたいな、まぁ空いてればとりあえず片側あけとけばいいじゃないか、みたいなふうになっているのが非常にモヤモヤして、どうしたら自発的にみんな立ち止まりたくなるのかなって考えたときに、何かインセンティブを設けよう、立ち止まることのよるメリットをみんな自然と感じればいいんじゃないか、「止まってください」と言われると押し付けられてるみたいで、「いやいや、いやだな」って思っちゃうと思うんですけど、美術館で作品を見る時って作品の前に人だかりができたり、みんな自然と足が止まっていたりするので、それをエスカレーターに持って来れないかなと思って。まぁひらめいてこういった立て付けの作品が出来上がったと。

 そんな感じで、なんか皆が、もやっと抱えてるようなところを汲み取るのですが、それがうまく汲み取れて、発想の種ですね、それをスカッとするようなアンサーに変換してあげて、表現する。

 まぁその飛躍の部分なんですけど、「あぁそうだよね!その発想なかったわ」、「発想が天才だ、それだわ」、っていうのがTwitterに書いてあったリプライなんですけど、「あ!今まで自分考えてなかったけど言われてみれば分かる分かる!」みたいなそういう、反応が爆発的に広がっていく。それが何かこのアートシンキングというものモノづくりの中に入れ込むと、インパクトにつながるみたいなロジックになってるんじゃないのかなと思っています。
 なので客観的な数値とか理論とか、顕在化しているニーズとか言うのを汲み取るだけでなく、これはロジカルシンキングとかデザインシンキングで散々言われてきていることなんですけど、それにプラスして遊び心というのを少し織り混ぜると面白いことが起きるかもなぁと思って、僕はものづくりをずっとやってきています。

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